医方古言

日本漢方(古方派)とは

今日、日本で普及している東洋医学は、「古方派」と呼ばれる伝統的な日本漢方の流れをくむものが主流になっています。
遣唐使の時代から中国より伝来してきた漢方医学も、江戸時代になるとその理論が複雑化して観念的になってきたため、当時の日本人には受け入れにくくなりました。観念論を嫌い中国医学の理論を排除し、自覚症状と身体の表面に現れた症状(他覚症状)といった、はっきりと判断の付く症状のみを重視して、治療方法を決定しようとしました。また、自分たちのこれまでの漢方の治療経験を、より重要視するようになりました。
これらの漢方医学の流派は、古方派は古方派と呼ばれ、鎖国政策で中国医学が入りにくいこともあり、日本独自の漢方医学として江戸時代に発達しました。

日本漢方(古方派)の特徴は

古方派の漢方は、中国の漢の時代に書かれた「傷寒論(ショウカンロン)」「金匱要略(キンキヨウリャク)」をという医学書が、ベースになっています。この医学書は、方証相対といって、証(病状や体質)と方(漢方処方)が一対になっていることが、最大の特徴です。病気の症状と、それに対応する漢方処方が明確になっているのです。反対に、東洋医学の基礎理論や病気の理論を考える病院病機学など、理論的な事はあまり、表には出てきません。
つまり、漢方的な病気の理論のところはブラックボックスになっていて、自覚症状と漢方的診察結果をインプットすると、自動的にそれに対応する漢方処方が決定する、すなわち、治療方法がアウトプットされるのです。すごくシンプルで実利的な手法です。

日本漢方(古方派)の診断と治療のやり方

先ず、患者の自覚症状の確認と、脈診、舌診、腹診などの漢方的診察(他覚症状の確認)を行います。
次に、気血水、虚実、三陰三陽病などの基本的な日本漢方(東洋医学的)理論に基づいて、大まかな証の判定めを行います。ここで、使える漢方処方を大ざっぱにふるいにかけ選び出します。
そして、再度自覚症状と漢方的診察結果から、最適な漢方処方を選び出すのです。このときに参考になるのが、傷寒論という漢方医学書に記載されている症状となります。例えば、「脈が浮(脈を強く按じなくても、軽く触れるだけではっきりと脈を感じることが出来る状態)で、発熱頭痛があり、発汗が少なく、肩や筋肉がこわばっているときには、葛根湯が使用される。」と言うよな具合です。
このように、日本漢方における証というのは、効果があると予想される漢方処方名で表されます。上記の例えでは、葛根湯証と言うことになります。
漢方的な診察が出来て、証が決まれば即漢方の処方が決まるので方証相対と呼ばれます。非常に合理的な考え方です。これが日本漢方(古方派)のやり方です。

日本漢方の理論について

漢方の虚実

日本漢方でいう虚証とは、生きていくエネルギーが比較的不足している状態をいいます。実証とは、逆に体力が充実している状態、比較的生きていくエネルギーが充実している状態を言います。
この実証の概念は、同じ東洋医学でも中医学と異なる点です。ちなみに、中医学では、邪と正気の関係でとらえます。中医学で実証とは、邪気(病気の原因)が盛んな状態、過剰な状態を言い、虚証とは正気の虚を言います。
しかし、両者は関連があり、正気が充実していれば、邪気が侵入してすることはありませんし、正気が弱くなると、邪気が強くなって発病します。結果として同じような状態を表すことも多くなります。

漢方の陰陽

陰陽に関しても、中医学と漢方医学では異なります。日本漢方では、狭義の意味での陰陽の捉え方をしていて、漢方医学で陽病とは、熱性、活動性などを表します。新陳代謝機能が亢進していて、闘病エネルギーが十分に発動できる状態を言います。従って闘病エネルギーが沢山湧かせて各臓器が過剰に働くので、熱が発生することが多くなります。
これに対して、陰病は、寒性、非活動性など、新陳代謝機能が低下している状態を言います。闘病エネルギーが少ししか使えないので、各臓器はあまり働けず、熱が少ししか出せなかったり、吸熱反応が生じて、冷えを現すようになります。

漢方の三陰三陽

上記のように、漢方医学では、陰病は必要熱を欲しがっている寒の状態、陽病は不必要熱の沢山出ている熱の状態を表していました。
これら陰病陽病も、熱の出方によってさらに細かく分類できます。ちょうど、一日のサイクルに似ていて、朝の太陽が昇りだして徐々に熱が出始める状態を、「太陽病」と呼びます。次に、だんだん日が昇り、熱が最も強くなる真昼の様子に似ているのが、熱と症状が最も激しい状態の「陽明病」です。そして、この病状を放置しておきますと、だんだん病気が進んできて陽気が少なくなり、夕刻に似た「少陽病」という状態になります。
このように、陽病は病気の進行に応じて、太陽病・陽明病・少陽病の三つのタイプに分類されます。。これらの状態は、風邪を引いた時を想像していただければ、良く解ると思います。最初、悪寒発熱が起こります。でも熱はそれほど高くありません。この状態で治らなければ、節々に痛みが出てきて高熱が出てきます。これが陽明病です。しかし、風邪がさらにこじれてくると、熱は下がりますが夕方に症状が悪化したり、微熱が出てきたりします。この状態が少陽病に相当します。
次に、陰病は太陰病から始まります。日暮れのいよいよ冷たくなる時刻に似た、陰の始めである太陰病です。太陰病が進むと陰がさらに増す状態の少陰病になります。その少陰病がさらに進み、陰のどん詰まりの極端な状態になることを厥陰病と呼びます。つまり丑三つ時に相当します。この時期になると、病勢がすでに過ぎて、命を全うし難くなります
中国の伝統医学が中国から日本に伝えられたのは、遣唐使などにより中国との交流が盛んになった6~7世紀頃と言われています。それまでの医学は和方と呼ばれ、それらは漢方医学(東洋医学)に次第に吸収されていきました。
平安時代から、鎌倉時代にかけては、寺院や僧侶が漢方医学の担い手でした。金寺院の枇杷療法や、福井県長泉寺のスリバチ灸、陀羅尼助などに、当時の東洋医学の名残が見られます。
室町時代になると、医師を職業とする人が現れ始めました。当時の代表的な漢方医師には、明に留学し中国の医学を伝えた田代三喜や、豊臣秀吉の主治医であった曲直瀬道三などがいます。この時代までが日本の漢方医学の受容期と言われています。

江戸時代

経済や社会が安定していた江戸時代は、東洋医学(漢方)が非常に盛んになった時期でした。多くの村には、漢方医がいて、薬屋(薬種商)ができ、富山の配置薬で有名な薬の行商人が、全国各地を回っていました。
江戸時代中期以降になると、中国医学を受け入れず、日本独特の東洋医学(漢方医学)を目指す漢方医たちが現れました。古方派と呼ばれる漢方医のグループで、古(イニシエ)の時代の傷寒論の考え方を尊重しました。中国医学の複雑な観念論を嫌い、自覚症状と他覚症状を重視して、漢方の処方を決定しようとしました。古方派の出現には、鎖国のため中国医学の情報があまり入らなくなったことや、蘭学はと呼ばれるオランダ医学の導入もあり、当時のヨーロッパの実証主義の影響も受けていたものと想像されます。
こうして、中国から伝来した中国医学も、時代とともに、日本人の体質や文化に応じた独自の漢方医学として発展していきました。

明治以降の漢方の衰退

明治政府は西洋近代医学のみを正規の医学として認める政策を取りました。西洋医学を修得した者のみを医師として認める法律を発布しました。これにより、漢方医学(東洋医学)は医療行為とは認められなくなり衰退期を迎えました。
その後東洋医学は、漢方は薬種商や一部の薬局によって、また鍼灸師によってのみ、細々と伝承されることになりました。しかし、医療保険制度のなかった時代、手軽な治療手段として、庶民の間で比較的浸透していました。

戦後

戦後になると、抗生物質や副腎皮質ホルモンなど、非常に効果のある薬剤が紹介され、また、健康保険度が敷かれるようになると、医師による西洋医学中心の治療が広く国民に浸透し、東洋医学は再び停滞することになりました。
しかし、万能かと思えた西洋薬も、スモン病など強い副作用が問題となり、また昭和50年代前半になると、保険適用の漢方薬が増えたことなどから、再び漢方が注目を浴びることになりました。ところが、正当医学と認められていない東洋医学は、日本の医学教育の現場で学ぶことは出来ません。運用方法を知らず漢方薬を病名だけで選び、漢方は副作用が少ないからなどと安易な気持ちで投薬を繰り返した結果、小柴胡湯による副作用から間質性肺炎を起こし、死亡する事件が発生してしまいました。
戦後も50年を経過すると、日本国民の病気も結核などの感染症から、体質病と呼ばれるアレルギー疾患、膠原病などの自己免疫疾患、がん、循環器系疾患など、生活習慣や遺伝的な体質による病気に変化してきました。これら国民の病気の推移が、今再び東洋医学の注目を集め始めています。

本内容は、大阪府堺市 三砂堂漢方 三砂雅則が解説いしました。